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今年のHCDのメンバーが作成した会報誌と連動したレポートです

7日前 245

会報誌37号のP13に、今年度HCD担当で作ったページがあります。
その内容の、さらなる詳しい内容をここにアップします。

“筋金入り”だった竹早の自主自律

2026年篁会会報編集長 直居敦(1983年卒)

 

「自由な校風に憧れて竹早高校にしました」――。

そんな声が幅広い世代から聞かれる。明るさ、自由さは竹早のカラーのようだ。だが、竹早の自主自律、自由な校風の背景には、そんな生易しいものではない“筋金入り”の歴史があった。

 1960年代後半、いったんは下火になった安保闘争が再び燃え盛る。東京大学、日本大学などで火を噴いた学園紛争が、最初に高校に燃え移ったのが都立竹早高校だ。府立第二高女時代から続く“良妻賢母”のイメージからするとやや意外な感があるが、背景には当時の竹早高校で起きた教師による不正資金流用という生々しい事件があった。

 ◇1969年4月10日付毎日新聞1面と社会面(「竹早高で教師が不正」の見出し)

 「竹早高で教師が不正 教材でリベート 補習費水増し」

1969年4月10日、毎日新聞の社会面にこんな見出しが躍った。

 都立竹早高(東京文京区小石川、布川正吉校長)で3年以上にわたり生徒から3倍もの補習費をとったり、業者から教材費のリベートをとっていた先生がおり、都教育庁監督指導課が調査に乗り出したーー。

 教師陣による補習費の不正流用問題などはその後も大々的に報じられ、30余名の教師が処分されるという事件に発展する。東京学芸大学附属中と校舎の共有を余儀なくされる不自由感、圧迫感。また学年単位で補習費などを管理していたために、学年主任が強い権限を持ち「校長ですら口出しできない」とも言われた当時の竹早独特の構造、雰囲気があったようだ。

 生徒の学校と教師への不信が極まり、学校封鎖が19日間に及ぶ事態となる。この闘争をある意味でリードしたともいえるのが当時竹早高校1年生だった小森陽一(1972年卒)だ。のちに国文学者となる小森は、父親の仕事の事情により幼少期を旧チェコスロバキアの首都プラハで生活していた。教育はロシア語。当時の東側世界の最高峰の教育を受けた後に帰国した。高校生の頃はまだ、少なくても話し言葉は日本語よりロシア語の方が得意だったという“筋金入り”だ。小森はソ連仕込みのアジテーション(というか、日本語の話し言葉は不得手だったが文章言葉はまともに出来たことが功を奏したということでもあるらしい)で舌鋒鋭く闘争を主導した。校長をはじめとする教師陣が講堂の壇上で土下座をさせられる場面もあったという。小森の『コモリくん、日本語に出会う』(角川文庫、2017年)に次のような一節がある。

 生徒総会では、学内における生徒の基本的人権を認める「生徒権宣言」をつくるという方向での決議をし、起草委員会が出来、そこでつくられた条文が承認されていくことになります。ただ、この「生徒健宣言」を学校側が認めることを渋ったため、1969年の秋から翌年にかけて、全学ストライキがうたれることになります。その意味で、多くの「高校紛争」の中で、竹早高校のそれは特異なものだったと言えるでしょう。最終的に「生徒権宣言」は、学校側も承認し、1995年まで竹早高校の生徒手帳に載っていました。

 60年代から70年代、安保闘争の時代を生きた若者の多くが、その後の人生に強い影響を受けることになる。対面営業が当たり前の時代の証券界に、常識破りの「営業員なし、コールセンターによる証券会社」というビジネスモデルを持ち込み、その後ネット証券革命を起こした風雲児、松井道夫。高倉孝生篁会前会長と同期の松井は、筆者にかつてこんな話をしたことがある。「校舎建て替えもあって1年にも及んだ学校封鎖の時期、新宿高校に通うことになったが、到底まともに授業なんか受ける気になれない。新宿のジャズ喫茶などに入り浸っては世を拗ねていたよ」……。以下は2001年、筆者が松井にインタビューして日経金融新聞に掲載された記事「朋友録」の抜粋である。

 東京大学から近いこともあり、学園紛争のあらしは高校では最初に竹早高校に飛び火した。バリケード封鎖された校門を遠巻きに眺め、名画座やジャズ喫茶で時間をつぶし、図書館では今は中身も忘れた会話に興じながら、偶然与えられた自由な時間をおう歌した。(中略)自由という言葉に特別なこだわりを持ち続けている。高校時代の自由は偶然のたまもので、義務が欠かせないことを思い知らされたのは卒業してからだ。権威とか秩序を押しつけられると本能的に「違うだろう」と感じる。30年を経て変わらないこうした思いの原点は高校時代にある。時代を共有した友人たちも同じ何かを抱えていると思っている。

(2001年4月4日、日経金融新聞より)

 昨年(2025年)暮れ、篁会の忘年会で、少し年上の先輩方の昔話を聞いていたら、高倉前会長がこんなことを話し始めた。「学校封鎖、新宿高校との共同がある意味で山下達郎を生んだ。山下達郎が山下達郎になったのは学園紛争があったからなんだよ」……。

山下達郎もまた、竹早高校では高倉前会長と同期。学校封鎖で通った新宿高校の1級上には、2023年にこの世を去った坂本龍一がいた。私的なこと、まして高校時代のことをあまり語らない印象がある山下が、珍しく昔話を語っている記事がある。以下はオンラインメディア文芸春秋+に2022年7月17日付に掲載されたインタビューの一部だ。「同世代で友人と呼べる存在を挙げるとすると?」という問いに対して……。

 「坂本(龍一)君かな。彼がYMOのメンバーになる前、70年代半ばから2年半ほど、それこそ毎日のように会っていた時期がありました。数年前、久しぶりにゆっくり話す機会があったんですが、距離感はまったく同じだった」

「初めて会ったのは1974年頃で、福生にあった大瀧詠一さんのスタジオでのリハーサルでした。それまで面識はなかったんですが、坂本君は新宿高校、僕は竹早高校で、同時期に高校紛争を経験しているんです。年齢的には坂本君が1級上」(中略)

「そういう背景もあって、坂本君とは初対面からウマが合った。新宿のゴールデン街の飲み屋で、彼が東京藝大で専攻していた現代音楽について客と論議を戦わせているのを眺めていたり、行きつけのライブハウスの酒を飲み尽くしたり(笑)」

「坂本君にしても僕にしても、70年安保で人生が狂ったクチなんです。これはよく言われることですけど、60年安保を機にドロップアウトした人たちが流れた先が雑誌メディア」(中略)

「一方、われわれ70年代安保世代が流れたのは音楽メディア。たとえば、そうだな、谷村新司さんは、元々は佐藤春夫に憧れて詩人を目指していたところに、ビートルズが出てきたせいで、アリスを結成することになったそうです。60年代の音楽にはそういうパワーがあった。その圧倒的な衝撃に引き寄せられて、本来ミュージシャンになんかならないでいいやつが音楽業界に入ることになったんです」

(文芸春秋+2022年7月17日付「坂本くんと大瀧さんと…70年安保世代の音楽交遊録」より)

 収まったかに見えた学園紛争は60年安保から10年の期限、自動延長を迎える1970年を前に再び燃え盛る。1970年11月には、三島由紀夫が自衛隊のクーデターを促し割腹自殺を遂げ、社会に衝撃を与えた。こうした空気感が山下にも強い影響を与えたのだという。

 安保闘争燃え盛る時代に教師陣を土下座までさせて獲得した生徒権宣言。先の小森の記述にあるように、その後も1994年までは生徒手帳に明記される形で残り続ける。もちろん90年代にもなると、安保の時代、生徒権宣言獲得のいきさつを詳しく知るものは竹早高校生にはいなかっただろう。

 2026年ホームカミングリーダーの植田聡美(1983年卒)を感動させたという出来事がある。篁会広報委員、東島粋生(2017年卒)ら生徒会による「土曜日授業拒否」は、生徒権宣言が生徒手帳から姿を消し、さらに20年以上も後の時代の話だ。以下は昨年(2025年)の篁会会報に植田が寄せた寄稿の一部だ。タイトルは、「自主自律」ってなんだろうーー。

 時が経ち、屋上が大好きだった同級生と私は結婚し、長男が竹早高校に入学しました。その初めての保護者会で、印象的な出来事がありました。当時、竹早高校は都立高校の中では珍しい週休2日でしたが、新任の校長先生が、その年度から土曜日も授業をする事を発表してしまいました。その保護者会の場に、生徒の代表者たちが現れて、週休2日を継続すべき理由と「週休2日でも十分な履修ができる」方法を述べて、保護者の説得を試みたのです。保護者たちはその行動と内容に感銘し、校長先生も納得し、週休2日は継続されることになりました。

 自主自律、自由な校風に憧れて入学したという今の竹早高校生が、こうした“筋金入り”の過去を詳しく知っているとは正直思えない。かく言う自分にしても、今回たまたま会報に関わる機会があって調べてみただけのことだ。だが、それでもなお引き継がれていく校風、カラーのようなものが確かにある。それは何とも誇らしいことであると同時に、次世代に紡いでいくためには、ある種の覚悟を求められることでもある。

あれほど世界と社会が騒然とした時代の後でさえ、日本は嵐のごとき高度経済成長期の波の中で、何かきちんと考えることを停止してしまった。そのツケが今、回ってこようとしてはいないか……。フワフワと流されるばかりでなく、たまには立ち止まって考えよう。改めてそんなことを考えている。

 

<敬称略>

(参考文献)毎日新聞1969年4月10日付縮刷版、日経金融新聞2001年4月4日付「朋友録」、『コモリ君、日本語に会う』(小森陽一KADOKAWA)、『69 sixty nine』(村上龍、集英社)、『ノルウェイの森』(村上春樹、講談社)、「坂本くんと大瀧さんと…70年安保世代の音楽交遊録」(文芸春秋+2022年7月17日)、『新版昭和史 戦後編』(半藤一利、平凡社)

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