今年のHCDのメンバーが作成した会報誌と連動したレポートです
杉浦重剛青年の脳裏に焼き付いた恩師の言葉
内田英伸(昭和58年竹早高校卒業)
「竹早の歴史と将来‐創立80周年記念-」に寄稿された金沢孝校長の手記1)に「自主,自律の精神」の源流は,1883年に杉浦重剛先生により開かれた家塾の称好塾2)にあるのではないかと記されている。称好塾の旧址碑は現在の東京学芸大学附属幼稚園竹早園舎の敷地内にあり,1940年に東京府立第二高等女学校校長の加藤覚享先生が建立されたものである。東京府立第二高等女学校は1900年に光円寺内の仮教室で授業を始め,この時より加藤先生の時代に至るも,その校舎と教員は東京府女子師範学校と併用されていた。
称好塾の塾主は,後に,東京大学博物場掛取締,植物園事務係取締,予備門長を務められた杉浦重剛先生である。杉浦先生は晩年,東宮裕仁宮(後の昭和天皇)御学問所御用掛,久邇宮良子女王(後の香淳皇后)御学問所御用掛となられ,両殿下に倫理科をご進講された。2)
若かりし頃,杉浦青年(以下,敬称略)は英国マンチェスターのOwens Collegeで化学を学んだ際2,3),一生忘れられない言葉を指導教員から受けた。ある時,親友Cross君と共に元素分析の実験をした際,杉浦青年は20分ほど昼食を食べに出かけ,その後実験室に戻った。その時Cross君は部屋にいなく,また,運の悪いことにガラス器具が炎熱で割れていた。杉浦青年は,その場でRoscoe先生,Schorlemmer先生に怒られることになった。その時,「自分の昼食の間の観察はCross君の番でした」と言い訳をしたが,両先生は語気荒く「化学者たるものは他人に依頼してはならぬ,ただ己に依頼するべきのみだ」と異口同音におっしゃった2,3)。その後,日本に帰国し,青年たちの教師になられた杉浦先生は,常々,教え子にこの話しを伝えられたという2,3)。

1) 金沢孝(1980),好しと称す(称好),竹早の歴史と将来-創立80周年記念-,PTA竹早第20号特集号,東京都立竹早高等学校父母と教師の会
2) 猪狩史山(1941),杉浦重剛,新潮社
3) Casson, J. N. (2003), マンチェスターの明治期日本人留学生 - 杉浦重剛(1855-1924)の場合 -,日本語・日本文化 29, 17-45, -03
(この原稿は未発表の投稿原稿であり著作権は内田英伸と作図者に属す。本稿の執筆にあたり山方百合子氏,柳屋克子氏,藤田紀久子氏,本間亨氏に資料のご準備をいただいた。)